1863年8月、尊王攘夷派の志士らによって幕府に対するクーデターが発生。「天誅組の変」と呼ばれるこの事変は約40日間の戦闘の末、奈良県東吉野村で終結を迎えます。今回は天誅組の総裁の一人・吉村寅太郎と彼らの足跡をたどります。
寅太郎の生地、土佐国高岡郡東津野山郷芳生野村は、古来学問や歴史文化を重んじ、尊王的な思想が自然的に受け継がれたところだといいます。
庄屋の長男として家を継ぎますが、学問を儒学者の間崎哲馬、剣術を武市半平太に学び尊王攘夷に傾倒。土佐勤王党に加わり脱藩し、京や大坂、長州で倒幕挙兵に向けて活動します。
朝廷の権威を復活させようという尊王思想と、夷敵(外国)を実力行使で排斥しようという攘夷思想。江戸時代末期、幕府が諸外国と条約を結び、鎖国体制を解いて開国すると二つの思想が結びつき「尊王攘夷論」となりました。
これがのちに幕政批判や討幕運動などの素地の一つになっていきます。
1863年8月13日、孝明天皇の大和行幸が計画されるや、その先鋒となるべく14日、備前岡山藩の藤本鉄石、三河刈谷藩士の松本奎堂と共に同士30数人と天誅組を結成しました。
尊王攘夷派の公卿・中山忠光を主将に、藤本・松本・吉村の3人が総裁を務め、京都・方広寺から河内国を経て8月17日、大和国の五條代官所を襲撃します。
同日午後4時ごろ、代官が幕府領の引き渡しをはじめとする天誅組の要求を拒否すると、代官所(旧五條市役所庁舎)を襲撃。この時代官所の役人は13人しかおらず、天誅組によってあっさり制圧。代官所は焼き払われました。
襲撃後、天誅組は近隣の櫻井寺を本陣として『五條御政府』の旗を掲げました。この時、五條代官・鈴木源内以下5人が処刑され、その首を洗ったとされる手水鉢が現在も櫻井寺の境内に残っています。
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しかし翌18日、京都にて会津・薩摩が御所を占拠。尊攘派の公家や長州藩士らを追放します(八月十八日の政変)。その結果大和行幸は中止となり、挙兵の大義名分を失った天誅組は「朝敵」として幕府から追討軍が差し向けられることになりました。
天誅組は徹底抗戦を決定。交通の要衝で要害堅固な天辻(五條市大塔)へ本陣を移動。勤王の志厚い十津川郷士にも協力を求めながら追討軍との一進一退の攻防を展開します。
8月26日には兵糧の差し出しを拒否した高取城の攻撃に向かいますが、高取藩の砲撃の前に隊は混乱(鳥ヶ峰の戦い)。再度夜襲を仕掛けるも、十津川郷士の誤射により寅太郎が負傷。退却を余儀なくされ、この後1万人以上の追討軍に追われることとなります。
吉野山中での敗走戦を繰り返す中、今まで天誅組が朝敵となったことを知らずに戦ってきた十津川郷士にも、一党の現状が知らされます。それぞれの代表同士の話し合いがもたれ(福寿院会談)、9月16日、十津川郷士の離反および郷内からの撤退が決められました。
下北山村・上北山村・川上村と北上しながら中山忠光ら本隊の脱出を画策する一行。9月24日、隊士・那須信吾ら6名が決死隊を結成し、彦根藩の待つ鷲家口(東吉野村小川)へ突撃。全員が非業の死を遂げました。
その後9月28日にかけて三総裁が戦死。東吉野を抜けた隊士も道中で捕縛・討死しました。かろうじて長州へと逃げた中山忠光も翌年に暗殺されています。吉村寅太郎は薪小屋に潜伏するも村人の密告により捕縛。自刃も許されず射殺されました。享年27歳。
幕府への反乱としてわずか1か月あまりで壊滅した天誅組も、事変から4年後に明治維新がなると、倒幕の先陣をなした「維新のさきがけ」として評価されるようになります。寅太郎には新政府から正四位の官位が贈られています。
同村小川にある宝泉寺は天誅組義士の菩提寺として隊士9人と彦根藩士2人の菩提が弔われています。境内には「天誅組義士記念碑」も建てられています。
天誅組の評価が高まる中で、天誅組の生き残りである北畠治房(平岡鳩平)や元土佐勤王党の同士らによって慰霊と顕彰活動が活発化。1895年の33回忌法要に合わせて墓地が整備されました。明治谷墓所に9人、湯之谷墓所に5人の隊士の墓碑があります。
明治谷墓所には吉村寅太郎の墓碑が2基あり、角が丸く削れている方は幕末に「世直しの神」として庶民に信仰されていることを見かねた五條代官が川底に捨てさせ、のちに引き上げられたものと伝わっています。
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